楽天イーグルスにとって忘れられない日

楽天イーグルスにとって忘れられない日





#楽天#野球

#創価大学#新人間革命

今から15年前の2005年3月27日はプロ野球・パリーグ公式戦の千葉ロッテマリーンズVS東北楽天ゴールデンイーグルスの第2回戦で、ロッテが26対0で勝利し、完封試合としてはプロ野球史上最大タイの得点差試合となった日です

楽天として忘れられない屈辱的な日となりました


2005年よりパリーグで1年目をスタートさせたチームは、3月26日の千葉マリーンスタジアムで行われた初の公式戦(千葉ロッテマリーンズ戦)で見事に勝利し幸先よいスタートを切ったのも束の間、翌日の27日には0-26の大敗を喫しています。投手陣は24安打され与四死球は14、打撃陣も1安打1四球で完璧に抑えられました。

2004年、日本中に衝撃を与えた球界再編問題により、近鉄とオリックスが合併。その後、ライブドアとの競合の末、新規参入を勝ち取ったのが東北楽天ゴールデンイーグルスだった。50年ぶりの新規参入球団は、東北の宮城県仙台市を本拠地に選び、田尾安志監督の下、スタートを切った。

 ただし、戦力的にはオリックス、近鉄の選手を合わせた中で、優先的に選手を選んだのはオリックス。楽天は、その残りと、他球団から戦力外となった選手などを集めた、いわば“寄せ集め軍団”だった。

幸いだったのは、近鉄のエース、岩隈久志がオリックスにプロテクトされながら楽天入りを熱望。3月26日、ロッテとの開幕戦(千葉マリン)では、その岩隈が1失点完投で歴史的な球団初勝利。ただ、翌日0対26と大敗したように戦力不足は明らか。

終わってみれば、東北楽天ゴールデンイーグルスの1年目は38勝97敗1分。首位の福岡ソフトバンクホークスとは51.5ゲーム差、5位の北海道日本ハムファイターズにも25ゲーム差をつけられての断トツの最下位という屈辱的なシーズンになった。

2年目以降の成績は以下の通りです。

2006年 47勝85敗4分【最下位】   野村克也監督が就任

2007年 67勝75敗2分【4位】    田中将大が入団

2008年 65勝76敗3分【5位】    エースの岩隈だ。21勝で最多勝、1.87で最優秀防御率。沢村賞、MVP

2009年 77勝66敗1分【2位】

2010年 62勝79敗3分【最下位】

2011年 66勝71敗7分【5位】    星野仙一監督が就任

2012年 67勝67敗10分【4位】

 そして迎えた2013年、ついに歓喜のときがやってきた。開幕から24勝無敗の田中将大を軸に、開幕投手も務めた則本昂大が15勝。野手ではジョーンズ、マギーの助っ人が存在感を発揮し、見事、球団創設から9年目にして初優勝。CSではロッテ、日本シリーズでは巨人を下し、悲願の日本一にもなって、星野監督が仙台の空を舞った。

被災者のみならず多くの国民が、この場面この優勝にどれだけの勇気と元気を与えられたことでしょう。

そして、東北・宮城の地で21万人ものファンに祝福されながら、念願の優勝パレードが開催されたのです

「週刊ベースボールONLINE」より引用



新人間革命15巻 創価大学の章には

創価大学の野球部が発足当時の様子が描かれているのでご紹介します。



新人間革命15巻 創価大学の章より

一方、文化系サークルだけでなく、柔道、ラグビー、硬式野球、アメリカンフットボールなど、スポーツ系のサークルも、次々と設立された。

 後に全日本大学野球選手権大会で好成績を収め、創価大学の名を社会に知らしめることになる硬式野球部も、開学の年にスタートしている。

 当初、同好会の届け出をすることになったが、必要とされる人数が集まらなかった。

 ようやくメンバーを集めたが、初めて硬球を握ったという人もいた。

 バットやグラブなどの用具は、個人が持っているものを持ち寄って使うことにした。

 練習場所の大学のグラウンドは、まだ十分な整備がされていないため、石ころだらけであり、整地作業から始めなければならなかった。

 それは、グラウンドを使う、ほかのサークルも一緒だった。

 草むしりをしたり、スコップを手にしているうちに、日が暮れてしまうこともあった。

 しかし、あとに続くであろう後輩たちのためにもと、誇り高く青春の汗を流した。


24  創価大学(24)

 グラウンドで練習する場合も、野球だけで、単独で使用することはできなかった。

 アメリカンフットボールやサッカー、ラグビーも、同じグラウンドを使うしかなかったからだ。

 だから、グラウンドには、大小さまざまなボールが飛び交っていた。

 また、グラウンドは野球場とは形が違うため、打球の方向によっては、ただの外野フライでもホームランになってしまった。ところが、実際には、ホームランなど極めて少なかった。

 初めは野球の練習に、九人がそろうことさえ珍しかった。

 アルバイトをしないと、生活できない人が多かったからである。

 したがって、他校との練習試合も、なかなかできなかった。

 ようやく近くの高校の野球部と練習試合を行うことになったが、七対八で敗れてしまった。

 この高校との二度目の試合でも、やはり惜敗したのである。

 創価高校の野球部とも試合をしたが、三対四でサヨナラ負けした。

 しかし、メンバーの胸には、闘魂が燃え始めていた。

 ″やる限り、何事も勝たなければつまらない。でも、まともに練習もせずして、試合に勝てるわけがない!″

 皆が真剣に練習に臨むようになった。

 すると、具体的な目標の必要性を痛感した。

 彼らは話し合った。

 「大学のリーグに加盟しよう」

 しかし、周囲には「時期尚早」だとする声もあった。他校との試合で好成績を収めるなどの実績が、なかったからだ。

 野球部がリーグ加盟を希望しているとの話は、創立者の山本伸一の耳にも入った。

 伸一は、その気概が嬉しかった。何か応援してあげたかった。

 そこで、クラブ活動の資金を寄付した。

 野球部が東京新大学野球リーグに加盟したのは、開学から三年が過ぎた一九七四年(昭和四十九年)のことであった。

 二部の春季リーグ戦の初戦は、大量の点差で負けた。

 だが、第二戦では初勝利を飾り、以後、勝ち続け、二部第二位となったのだ。勝利の喜びを初めて噛み締めた。

 燃えた。断じて勝ち続けようと皆が決心した。


25  創価大学(25)

 勝負の世界とは厳しいものだ。たまたま好調で勝つことがあったとしても、本当の実力がなければ、勝ち続けることはできない。

 絶好調で勢いづいている時に、好成績を上げることは容易である。本当の実力とは、最悪な状態の時でも、着実に勝利を収めることができる力である。

 創大の硬式野球部は、一九七四年(昭和四十九年)秋のリーグ戦では三勝三敗一分けであり、伸び悩んでいた。

 それを聞いた山本伸一は、十一月下旬、練習中の野球部員の激励に、グラウンドにやって来た。

 伸一は、この日、彼の宝ともいうべき貴重な品々を野球部に託そうと思っていたのである。

 それは、一週間ほど前に、アメリカ大リーグの名門チームであるロサンゼルス・ドジャースの選手たちから、伸一に贈られた野球用具であった。

 背番号「一〇〇」の、伸一用のユニホームや、この年にチーム最多のホームランを打ったジミー・ウィンのサイン入りバット、選手たちのサインボールなどである。

 創立者の姿を見つけた野球部員は、「先生!」と言って、彼の周りに一目散に走り寄ってきた。

 「みんな、頑張っているね。今日は、私の大事な宝を野球部に託しに来たんだよ。

 これは、今シーズン、ドジャースのホームラン王となった選手のバットです。そして、ボール、ユニホーム一式です。

 諸君が持っていてください。野球部の宝として、後輩に伝えていってもらいたいんです」

 メンバーは、わが目、わが耳を疑った。皆、驚きで声も出ないという顔であった。

 伸一は、微笑みながら、言葉をついだ。

 「私には、世界の各界で活躍する第一人者の友人がたくさんいます。創価大学もまた、すべての面で世界の最高峰とつながっているんです。

 それから、試合で惜敗する理由は、油断、気の緩みである場合が多い。

 だから、『勝って兜の緒を締めよ』というが、創大野球部は、『負けて兜の緒を締めよ』の精神でいくようにしてはどうだろうか。

 また、試合は、勝つ時も、負ける時もある。しかし、大切なことは、人間的に成長し、人間として勝つことです」


26  創価大学(26)

 グラウンドでの山本伸一との語らいは、野球部員にとって、忘れ得ぬ思い出となった。

 彼らは語り合った。そして、伸一の話から「人間勝利の野球部」というスローガンをつくった。

 皆が奮起した。人間として勝ったといえる野球をやりたいと思った。

 一九七五年(昭和五十年)の、二部春季リーグ戦が開幕して間もない、五月五日のことであった。

 大学近くのグラウンドを借りて、創価大学や創価学園の教職員らの親善野球大会が行われた。

 伸一は、そこに野球部員を招き、テントのなかで一緒に試合を観戦しながら、対話を交わした。

 彼は、期待を込めて野球部員に言った。

 「『さすが、創大野球部だ。すがすがしい』といわれるチームになっていくんだよ。 

 創価大学も、野球部も、まだ草創期であり、苦労も多いかもしれない。しかし、その苦労が大事なんだ。

 また私は、一番苦労した人を、一番大切にしていきます。何か質問はないかい」

 野球部員が尋ねた。

 「試合の流れが一方的になり、追い込まれてしまった場合は、どうしたらいいでしょうか」

 「ピンチになった時には、みんなで集まって、心機一転して頑張っていくことだよ。これは、野球の試合でも、人生でも一諸です。

 戦いで負ける時というのは、相手に負ける前に自分に負けてしまっているものだ。

 プレッシャーや状況に負けてはいけない。その時こそ、心を一新し、ますます闘志を燃え上がらせていくんだ」

 試合が一段落すると、伸一は言った。

 「一緒に練習しよう。ぼくがノックをするよ」

 野球部員は、伸一がノックするボールを懸命に追った。体当たりで白球に食らいついた。

 「うまいねー」

 「大したもんだ!」

 伸一は、彼らがボールを捕るたびに、声をかけていった。

 野球部員が受け止めたのは、創立者の期待と、真心であったのかもしれない。白球を追いながら、目を熱く潤ませる部員もいた。

 ノックするボールの快音が、いつまでもグラウンドにこだましていた。


27  創価大学(27)

 ″断じて勝とう! 勝って創立者に応えたい″

 それが全野球部員の決意となっていった。

 折から二部春季リーグ戦が始まっていた。

 山本伸一の激励を胸に、創大野球部は大奮闘し、このリーグ戦で初優勝を果たしたのである。

 そして、この年、一部リーグに昇格。さらに、念願の野球場が完成したのだ。

 一九七七年(昭和五十二年)の春季リーグ戦では、初の一部優勝を果たし、全日本大学野球選手権大会に出場した。

 惜しくも準決勝で敗退したが、学生監督に率いられた大学野球らしいさわやかなプレーは、清々しいとの評判を呼んだ。

 以来、創大野球部は、数多くのリーグ優勝を飾り、全国大会でも、好成績を収めるまでになる。また、プロ野球選手も輩出している。

 また、後年、伸一は、野球部の勝利と栄光を願い、次のような指針を贈っている。

 「心で勝て 次に技で勝て 故に 練習は実戦 実戦は練習」

 創立者とともに、創大の″人間野球″の伝統が築かれていったのである。