助っ人外国人

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#野球 #助っ人外国人

#投手 #新人間革命

1916年5月1日は日本プロ野球初の300勝を達成したビクトル・スタルヒンが生まれた日です。

 スタルヒンはロシア革命で迫害された、いわゆる“白系ロシア人”で、家族とともに、ロシアから亡命し、北海道旭川市で少年時代をすごした。191センチの長身から剛速球を投げる「怪童」と呼ばれ、旧制旭川中(現旭川東高)で活躍。

昭和11(1936)年にプロ野球巨人に入団。14年には現在もプロ野球記録として残るシーズン42勝を挙げるなど、沢村栄治投手とともに戦前の巨人の黄金時代を築いた。

 しかし38勝を挙げた15年に時代の波がスタルヒンを襲う。日米開戦を前に野球は敵性スポーツとみなされ、球団名や野球用語の英語使用が禁止された。

9月12日に「プレーボール」が「試合始め」「ゲームセット」を「試合終わり」「タイム」を「停止」と呼ぶことが決まった。やがてスタルヒン個人にも圧力がかかり、4日後の16日からスタルヒン改め「須田博」としてプレーすることになった。

 亡命者のスタルヒンは生涯、無国籍だった。このため応召されることはなかったが、屈辱的な名前でプレーを続ける一方、スパイ容疑をかけられ、尾行されることもあったという。そして、職業野球がいよいよ中止になると、ほかの外国人とともに長野・軽井沢に抑留状態にされた。

時代や周囲に翻弄され続けた大投手だが、地元の旭川では英雄だ。57年には旭川市営球場が「スタルヒン球場」と改名され、球場正面には銅像が建立されている

小説「新・人間革命」1巻 旭日の章より

21  旭日(21)

 その壮年は、当時、熱狂的な人気を博していた、プロレスラーの力道山に似ていた。

 山本伸一は語りかけた。

 「きょうの朝から思っていたんですが、あなたはプロレスの力道山にそっくりですね。名前はなんとおっしゃるんですか?」

 「はい、ヒロト・ヒラタです」

 「そう。その名前より、力道山の方が覚えやすいね。これから″リキさん″と呼んでいいですか」

 どっと笑いが起こった。伸一の気さくな言葉に、場内に漂っていた緊張が、次第にほぐれていった。

 「奥さんはいらっしゃるの?」

 「はい、奥さんは、日本の仙台にいます。後でハワイに来ることになっています」

 自分の妻を奥さんと言うヒラタの話し方が、皆の笑いを誘った。よく聞いていると、どことなく、ぎごちなさが感じられる日本語であった。

 このヒロト・ヒラタの人生の歩みは、ある意味でハワイの日系人の歴史を象徴していたといってよい。

 彼は日系二世であり、父は真珠湾攻撃の後、すぐに抑留されて、アメリカ本土の抑留所に収容された。

 母とヒロトも父の後を追って本土に渡り、同じ抑留所に入った。そして、一九四三年の日本との捕虜交換で、ヒラタ親子は捕虜交換船に乗ることができた。

 船はニューヨークから大西洋を渡り、アフリカの南端を経て、シンガポールに寄港した。シンガポールは当時「昭南島」と呼ばれ、日本の軍政下にあった。

 ヒロトは、ここで船を降り、英語を生かして、放送局のニュース班員として働くことになった。

 しかし、間もなく、彼のもとに、日本の召集令状が届いた。彼は、アメリカ国籍とともに、日本国籍をもっていたのである。

 同世代のハワイの日系人は、アメリカ軍として、イタリア戦線で戦っていた。だが、徴兵された彼は、そのアメリカを「鬼畜米英」として敵対する、日本軍として戦わねばならなかった。

 日本は父母の祖国であるが、アメリカは彼の祖国である。戦争が人間を引き裂き、更に、彼の心をズタズタに引き裂いていった。

 ハワイ生まれの彼は、うまく日本語が話せないことから、軍隊では、何かにつけて目の敵にされた。

 緊張のあまり英語が出てしまうと、古参兵から「敵国語を使うな!」と殴られた。また、敬語が正しく使えないために、「その日本語はなんだ!」と、顔の形が変わるほど、殴られたこともあった。

22  旭日(22)

 ヒロト・ヒラタは、祖国アメリカを憎むことを強いられ、殴られ続けることに耐えて、ようやく終戦を迎えた。

 そして、二年後、父の郷里の宮城県に復員した。

 やがて、結婚するが、妻は病弱だった。その妻が先に入信し、彼も妻や訪ねて来る学会員から、信心の話を聞かされた。

 「祈りとして叶わざるなし」との確信あふれる言葉が、ヒラタの心を揺さぶった。彼は信心を始めた。

 ヒラタには一つの願いがあった。それは、既に失われたアメリカの市民権を再び得て、ハワイに帰ることだった。

 日本での暮らしにも慣れ、日本語にも、かなり習熟はしたが、生まれ育った故郷で暮らしたいとの思いを、断つことはできなかったのである。

 彼は一心に勤行・唱題に励んだ。最初は慣れぬ勤行に半日も費やした。

 しかし、信心を始めて一カ月もたたないうちに、一通の手紙が届いた。アメリカ政府からの市民権の復活を許可する知らせだった。

 ヒラタがハワイに戻ったのは、半年前のことであった。彼は、生活の足掛かりをつくるために、まず一人で、ハワイに帰ってきたのである。

 山本伸一は、ヒラタに尋ねた。

 「奥さんは学会の役職はもっていますか」

 「地区担をしています」

 「そうですか。あなたは何か役職にはついていましたか」

 「日本を発つ前に、組長の任命を受けました」

 それから伸一は、一人一人に、信心を始めて何年になるかを尋ねていった。多くは一年ほどで、長い人でも三、四年ほどである。

 「わかりました。きょうは、日本から私と一緒に、五人の幹部が来ています。皆さんが顔を知っている人もいると思います。

 これから一人ずつあいさつしてもらいます。みんな英語はペラペラなんです」

 伸一が言うと、同行の幹部がポッと顔を赤らめた。笑いがもれた。

 「本当は英語で話したいらしいけど、きょうは、皆さんに日本語を忘れないようにしてもらうために、日本語で話をしますからね」

 幹部が次々に立って、自己紹介を兼ね、日本での活動の模様を伝え、指導、激励していった。

 話が堅苦しくなると、伸一はユーモアを交えて、解説を加えた。

 ここでは伸一は中心者であるだけでなく、司会者であり、進行係でもあった。

23  旭日(23)

 皆の心は、次第に一つに溶け合い、会場は笑いと和気に包まれていった。

 互いに同志の存在さえ知らず、孤軍奮闘してきた同志にとって、そこは心から安できる、ほのぼのとした安らぎの園となった。

 山本伸一は、それを待っていたのである。

 彼はにこやかな笑顔で、皆を包み込むように見渡して言った。

 「皆さんはハワイにやって来て、いろいろなご苦労をされたことでしょう。言葉も、文化や習慣も違うなかで、どうやって信心していけばよいのか、悩んだ方もいるでしょう。皆さんの苦労も、悩みも、よくわかります。

 きょうは、どんなことでも構いませんから、自由に質問してください」

 すぐに、二、三人の手があがった。

 質問会が始まると、同行の幹部はそっと座を外し、地区結成の人事の検討に入った。

 最初の質問は、若い婦人だった。

 「私、日本に帰りたいんです。でも、どうすればよいのかわからなくて……」

 こう言うと、婦人は声を詰まらせた。目が潤み、涙があふれた。

 しかし、嗚咽をこらえて婦人は話を続けた。

 彼女は東北の生まれで、戦争で父を亡くしていた。家は貧しく、中学を卒業すると東京に出て働いた。

 数年したころ、朝鮮戦争でアメリカの兵士として日本にやって来た、ハワイ生まれの夫と知り合った。母親は結婚に反対したが、それを押し切って、彼と一緒になった。

 そのころ、彼女は知人から折伏され、入信した。二年前のことだ。そして、ハワイに渡り、夫の実家での生活が始まった。

 自由と民主の豊かな国アメリカ──それは、彼女の憧れの天地であった。いや彼女だけでなく、当時の日本人の多くが憧れ、夢見た国といってよい。

 しかし、彼女の夢は、あえなく打ち砕かれた。夫の実家での暮らしは経済的にも決して楽ではなかった。また、言葉も通じない日本人である彼女に、家族は冷たかった。

 更に、夫までも、彼女に暴力を振るうようになり、夫婦の間にも亀裂が生じていったのである。

 日ごとに、後悔の念が増していった。孤独の心は、次第に暗くなり、海に沈む真っ赤な夕日を見ながら、彼女は泣いた。

 ──この海の向こうには日本がある。帰りたい。

 頬を伝う涙は、傷ついた心に冷たく染みて、悲しさをますますつのらせた。

24  旭日(24)

 山本伸一は、婦人の話をじっと聞いていた。

 「……それで私、主人と別れて、日本に帰りたいのです。でも、母の反対を押し切って結婚しましたから、日本に帰っても、誰も迎え入れてはくれません。どうしてよいのか、わからないんです……」

 婦人はここまで話すと、肩を大きく震わせて泣きじゃくった。その涙に誘われるように、会場の婦人たちからも嗚咽が漏れた。

 座談会の参加者のなかには、似たような境遇の婦人が少なくなかった。国際結婚という華やかなイメージとは裏腹に、言語や習慣の異なる異国での生活は、予想以上に厳しく、多くの障害が待ち受けていた。

 「敵国人」であった日本人に対する偏見もあった。彼女たちの多くは、そんな生活に落胆し、暗澹たる思いで暮らしてきたといってよい。

 伸一は大きく頷くと、静かに語り始めた。

 「毎日、苦しい思いをしてきたんですね。辛かったでしょう。……でも、あなたには御本尊があるではありませんか。信心というのは生き抜く力なんですよ」

 彼の言葉に力がこもっていった。

 「ご主人と別れて、日本に帰るかどうかは、あなた自身が決める問題です。ただし、あなたも気づいているように、日本に帰れば、幸せが待っているというものではありません。

 どこに行っても、自分の宿命を転換できなければ、苦しみは付いて回ります。

 どこか別の所に行けば、幸せがあると考えるのは、西方十万億の仏国土の彼方に浄土があるという、念仏思想のようなものです。

 今、自分がいるその場所を常寂光土へと転じ、幸福の宮殿を築いていくのが日蓮大聖人の仏法なんです。

 そのためには、家庭の不和に悩まなければならない自らの宿命を転換することです。自分の境涯を革命していく以外にありません。

 自分の境涯が変われば、自然に周囲も変わっていきます。それが依正不二の原理です。幸せの大宮殿は、あなた自身の胸中にある。そして、それを開くための鍵が信心なんです」

 彼は今、様々な不幸を追放せんと格闘していた。

 一人の婦人の心を覆う不幸の闇を打ち破り、勇気の泉を湧かせ、希望の明かりをともすための、真剣勝負の戦いであった。

 伸一には、婦人の辛さも、苦しさも、寂しさも痛いほどわかった。それだけに、何としても強く生き抜く力をもって欲しかった。

25  旭日(25)

 山本伸一は、強い確信を込めて言った。

 「真剣に信心に励むならば、あなたも幸福になれないわけは断じてない!

 まず、そのことを確信してください。そして、何があっても、明るく笑い飛ばしていくんです。

 ご主人だって、奥さんがいつも暗く、めそめそして、恨めしい顔ばかりしていたのでは、いやになってしまいますよ。

 また、言葉が通じなければ、家族の間でも誤解が生まれてしまいます。ですから、一日も早く英語をマスターして、誰とでも意思の疎通を図れるように努力してください。これも大事な戦いです。

 ともかく、ご主人やご家族を憎んだり、恨んだりするのではなく、大きな心で、みんなの幸せを祈れる自分になることです」

 彼は、ここまで語ると、優しく笑みを浮かべた。

 「あなた以外にも、このハワイには、同じような境遇の日本女性がたくさんいると思います。

 あなたが、ご家族から愛され、慕われ、太陽のような存在になって、見事な家庭を築いていけば、日本からやってきた婦人たちの最高の希望となり、模範となります。みんなが勇気をもてます。

 あなたが幸せになることは、あなた一人の問題にとどまらず、このハワイの全日本人女性を蘇生させていくことになるんです。

 だから、悲しみになんか負けてはいけません。強く、強く生きることですよ。そして、どこまでも朗らかに、堂々と胸を張って、幸せの大道を歩いていってください。さあ、さあ、涙を拭いて」

 伸一の指導は、婦人の心を、激しく揺さぶらずにはおかなかった。慈愛ともいうべき彼の思いが、婦人の胸に熱く染みた。

 彼女は、ハンカチで涙をぬぐい、深く頷くと、ニッコリと微笑んだ。

 「はい、負けません」

 その目に、また涙が光った。それは、新たな決意に燃える、熱い誓いの涙であった。

 伸一の平和旅は、生きる希望を失い、人生の悲哀に打ちひしがれた人々に、勇気の灯を点じることから始まったのである。

 それは、およそ世界の平和とはほど遠い、微細なことのように思えるかもしれない。

 しかし、平和の原点は、どこまでも人間にある。一人一人の人間の蘇生と歓喜なくして、真実の平和はないことを、伸一は知悉していたのである。