早くHUNTER×HUNTERの続きが読みたい
#HUNTER×HUNTER
#冨樫仕事しろ#新人間革命
4月27日は、漫画『HUNTER×HUNTER』(集英社)の作者・冨樫義博さんの誕生日です
週刊少年ジャンプ誌上で1998年より連載開始、発行部数7200万部を超える『HUNTER×HUNTER』。
本作は、主人公・ゴン=フリークスが、生涯をかけて希少な事物を追求する「ハンター」である父を追い、自身もハンターとして成長していく冒険活劇。
緻密で複雑な設定と読者の意表を突くストーリー展開で絶大な人気を誇る作品だ。
芸能界にもファンが多く、お笑い芸人の有吉弘行も自身のツイッターの中で、マンガ『HUNTER×HUNTER』への切実な思いを語り、多くのジャンプ読者の共感を呼んだ。
この日のツイッターで有吉は「来年はHUNTER×HUNTER読みたいなぁ。。。」とツイート。
冨樫義博氏による人気マンガ『HUNTER×HUNTER』が、2019年は一度も『週刊少年ジャンプ』に掲載されなかったことに対して、残念がる様子をのぞかせた。
冨樫氏は1989年に「てんで性悪キューピッド」で連載デビュー。ところがこれは1年と持たず打ち切り。
しかし翌年の1990年から連載開始された「幽☆遊☆白書」が大ヒット。
人気はどんどん上昇し、単行本は発行部数5000万(2015年までの累計)、アニメは平均視聴率17.6%(全112話)、最高視聴率24.7%を叩き出し、『幽☆遊☆白書』は『ドラゴンボール』や『スラムダンク』と共にジャンプ黄金期三本柱と呼ばれるほどの人気作品となった。
そして冨樫は幽白連載中の93年~94年、2年連続で高額納税者番付(長者番付)の文化人第2位(総合73位)に名を連ねることになった。
一躍人気作家となった冨樫は更に忙しくなり、連載当初から暗黒武術会編の前くらいまで、週に休みが睡眠のための半日しか取れなくなった。
それ以外はほとんど仮眠であり、ストレス発散は寝る時間を削って行うという日が続いたようだ。
1994年4月 幽遊白書 連載放棄事件
そして、ストレスが限界に達しキレた冨樫は、
人気絶頂だった『幽☆遊☆白書』を突然終わらせてしまった。
こうして『幽☆遊☆白書』終盤は、これまでの味方キャラと敵国に別れて戦う魔界三国志編が始まったと思ったら、突然主人公が「トーナメントしようぜ!」と言い出して全部有耶無耶になり、強引に最終回を迎えてしまうという、ある意味伝説の幕引きとなった
このこともあり、一時は「消えた漫画家」扱いされることもあったが
1998年からは現在も連載が続く「HUNTER×HUNTER」の執筆を開始しました
ただ残念ながら、『HUNTER×HUNTER』はとにかく休載が多い漫画で知られています。
そこでこれまで『HUNTER×HUNTER』が休載した期間と回数をまとめてみました。
2006年2月~2007年10月…約1年8カ月←キメラアント編
2007年12月~2008年2月…約3カ月
2008年5月~2008年9月…約4カ月
2008年12月~2009年12月…約1年
2010年6月~2011年8月…約1年1カ月 ←会長選挙編
2012年3月~2014年5月…約2年3カ月 ←暗黒大陸編
2014年9月~2016年4月…約1年8カ月 ←クラピカ追憶編
2016年7月~2017年6月…約11ヶ月
2017年9月~2018年1月…約4ヶ月
2018年4月~2018年9月…約5ヶ月
2018年12月~
以上が『HUNTER×HUNTER』の休載期間と休載回数
このように冨樫義博先生は連載を休みがちだったため、以前から「下描き状態でもいいから掲載してください(涙)」と懇願する声があがっていたが、
休載に対して不満が爆発している人も多く、「遊んでねえで働けよ!」「ゲームばかりしてんじゃねえ!」「週刊連載やめちまえ!」「仕事しろゴルァアアア!」と、怒りの声が噴出していた。
しかし、冨樫義博は持病のため「寝たきり状態」だったことが判明。ゲームにハマりすぎたわけでも、漫画を描きたくなかったわけでもなく、漫画を描きたくても描けない状態だったのである。
冨樫義博の人生からわかることは、常に新しい作品を生み出し続け、読者の要求に答えることは並大抵のことではないということです。
小説「新・人間革命」30巻上 雄飛の章より
39 雄飛(39)
学会が山脇友政を告訴した六月七日、宗門の宗会議員選挙の結果が発表された。学会攻撃を続ける若手僧らが、十六議席のうち過半数を占める十議席を獲得した。七月三日には選挙後初の宗会が開かれ、彼らが宗会議長などの主要ポストを得たのだ。
そして翌四日、彼らは、正式に「正信会」と称する組織を結成した。七月の御講では、学会批判を禁ずる再三の院達を全く無視して、多くの寺で、学会への激しい攻撃が行われた。
こうした動きの背後にも、追い詰められた山脇の暗躍があった。山脇に煽動された彼らは、宗門の指示に従わず、勝手な行動を繰り返した。
悪侶や週刊誌等による学会への集中砲火を、同志は耐え忍んだ。職場などで、同僚や上司から週刊誌の学会批判の話を聞かされる人もいた。しかし、創価の仏子たちは、「難来るを以て安楽と意得可きなり」、「賢聖は罵詈して試みるなるべし」等の御文を思い起こしながら、互いに励まし合い、弘教に走った。
当時、「聖教新聞」は、ようやく山本伸一の行動等が報じられるようになったとはいえ、まだ、遠慮がちな掲載で、力強い前進の息吹を与えるものとはなっていなかった。
伸一は、同志を思い、心を痛めた。
“皆に、新生の光を送らねばならない!”
折しも聖教新聞社からは、広布途上に逝去した草創の友らの回想録を連載してほしいとの要望が出されていた。伸一は、草創期から黙々と信心に励み、学会を支え、生涯を広宣流布に捧げた同志を宣揚しようと、その連載の開始を決めた。功労の同志の尊き生き方を通して、皆を勇気づけたかったのだ。タイトルは「忘れ得ぬ同志」である。
また、小説『人間革命』も、二年前の八月に第十巻を終了して以来、連載を中断しており、再開を望む声が数多く寄せられていた。彼は、『人間革命』の執筆も決意した。
吹き荒れる嵐に向かい、敢然と一人立つ――これが学会魂だ。これが師子の道だ。
40 雄飛(40)
七月下旬、山本伸一は、「忘れ得ぬ同志」と小説『人間革命』を担当する「聖教新聞」の記者たちと、神奈川研修道場で打ち合わせを行った。彼が、『人間革命』の連載再開を告げると、編集担当者は驚いた顔をした。そして、ためらいがちに話し始めた。
「読者は、大喜びすると思います。しかし、宗門の若手僧たちは大騒ぎし、先生が格好の標的になってしまうのでは……」
こう言って口ごもった。
すかさず、伸一は強い語調で語り始めた。
「そんなことはわかっているよ。今、大事なことは、私がどうなるかではない。守るべきは同志です。学会員は、非道な僧や、それに同調する人間たちから、冷酷な仕打ちを受け続けても、じっと堪え、広宣流布のため、学会のために、健気に、一途に、懸命に頑張ってくださっている。
私の責任は、仏子である、その学会員の皆さんを守ることだ。勇気の光、希望の光、確信の光を送り、皆が自信と誇りをもって、使命の道に邁進していけるようにすることだ。そのために私がいるんです。
したがって、今だからこそ、『人間革命』を書かなければならない。それが私の戦いなんだよ。いいね。わかるね」
記者は、大きく頷いた。
伸一は、笑みを浮かべ、言葉をついだ。
「できるだけ早く始めたいんだ。挿絵を担当してくださっている画伯とも、至急、連絡を取ってほしい。また、実は今、肩が痛くて腕が上がらないんだよ。すまないが、場合によっては、口述を書き取って連載するようにしてくれないか」
この一九八〇年(昭和五十五年)の夏、関東地方は長雨で、蒸し暑い日が続いていた。伸一は、前年からの疲労が重なっており、その天候が体にこたえた。しかし、彼は燃えていた。胸には闘志があふれていた。
「正義は必ず勝つという信念のみが、私たちを鼓舞する」(『マハトマ・ガンジー全集 68巻』インド政府出版局〔英語〕)とは、マハトマ・ガンジーの魂の言葉である。
41 雄飛(41)
「忘れ得ぬ同志」は、七月二十九日から連載を開始した。
そして、小説『人間革命』第十一巻が、八月十日から週三回の連載でスタートしたのである。第一章のタイトルは「転機」とした。
――一九五六年(昭和三十一年)九月、戸田城聖が一切の事業から身を引き、残された人生の時間を広宣流布に捧げる決意をするとともに、山本伸一に「山口開拓指導」の指揮を託すところから始まっている。
口述の場所は、神奈川研修道場や静岡研修道場など、山本伸一の行く先々で行われた。その前後には、たいてい全国各地の代表や各部の代表、あるいは地元メンバーとの懇談などが何組も入っていた。また伸一は、わずかな時間を見つけては家庭訪問に回った。
彼は、『人間革命』の担当記者に言った。
「私は、戸田先生の弟子だ。だから、どんな状況に追い込まれようが、どんな立場になろうが、広宣流布の戦いをやめるわけにはいかないんだ。命ある限り戦い続けるよ。しっかり、見ておくんだよ」
しかし、激闘による疲れもたまっていた。
咳が続き、発熱する日もあった。
ある日、口述の準備をして、担当記者を待つ間、濡れたタオルで額を冷やしながら、畳の上に横になった。ほどなく、「失礼します!」という声がし、記者が部屋に入って来た。
伸一は、薄く目を開けると、仰向けになったまま言った。
「悪いけど、少し寝かせてくれないか」
記者は、心配そうな顔で横に座った。
伸一は、時々、咳き込む。目も充血している。“こんな状態で、果たして口述をしていただけるのか……”と記者は思った。
カチッ、カチッ、カチッと、時計が時を刻んでいく。十分ほどしたころ、伸一は、勢いよく、バンと畳を叩き、体を起こした。
「さあ、始めよう! 歴史を残そう。みんな、連載を楽しみにしているよ。喜んでくれる顔が、目に浮かぶじゃないか。“同志のために”と思うと、力が出るんだよ」
42 雄飛(42)
山本伸一の周囲には、小説の舞台となる時代の「聖教新聞」の縮刷版、メモ書きした用紙、参考書籍などが置かれていた。伸一は、メモ用紙を手にすると、記者に言った。
「では、始めるよ! 準備はいいかい」
口述が始まった。一声ごとに力がこもっていく。記者は、必死になって鉛筆を走らせる。しかし、伸一が文章を紡ぎ出す方が速く、筆記が追いついていかない。そこで記者の手の動きを見ながら口述していった。
十五分ほど作業を進めると、伸一は、咳き込み始めた。咳は治まっても、息はゼイゼイしている。
「少し休ませてもらうよ」
彼は、また、畳の上に横になった。十分ほどして、記者の清書が終わるころ、呼吸は少し楽になった。また、力を込めて、畳をバンと叩いて身を起こした。
「さあ、やろう! みんなが待っているんだもの。学会員は、悔しさを堪えながら頑張ってくれている。そう思うだけで、私は胸が熱くなるんだよ。だから、同志には、少しでも元気になってほしいんだ。勇気を奮い起こしてもらいたいんだよ」
再び口述が始まった。しかし、やはり十分か十五分ほどすると、体を休めなければならなかった。
こうして原稿を作り、それを何度も推敲する。さらにゲラにも直しを入れて、新聞掲載となるのである。連載は、ひとたび開始されれば、途中で休むわけにはいかない。そこに新聞連載小説の過酷さもある。伸一にとっては、まさに真剣勝負であり、生命を削る思いでの口述であった。
「ことばは鍛えぬかれて、風を切る矢ともなれば炎の剣にもなる」(「北帰行」『アンデルセン小説・紀行文学全集6』所収、鈴木徹郎訳、東京書籍)とは、デンマークの作家アンデルセンの箴言である。伸一も、そうあらねばならないと自らに言い聞かせ、わが同志の魂に響けと、一語一語、考え抜きながら原稿を仕上げていったのである。
連載に対する反響は大きかった。全会員の心に、蘇生の光を注いだのである。 >
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