ゴジラの誕生秘話
今から66年前の1954年3月16日、読売新聞の朝刊で第五福竜丸事件が
「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」の見出しでスクープされ、瞬く間に日本はもとより世界的なニュースとなりました
第五福竜丸事件とは、1954年(昭和29年)太平洋・マーシャル諸島のビキニ環礁近くで、日本の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が、アメリカの水爆実験に巻き込まれ、死の灰を浴びたことで被爆した事件のことです。
広島・長崎につぐ第三の原爆(水爆)被害を受けたとして、国内で大きな問題となりました。
それから1954(昭和29)年11月、日本の怪獣映画の元祖として知られる作品、映画「ゴジラ」が公開されました。
「ゴジラ」の着想は、当時東宝のプロデューサーだった田中友幸氏が、インドネシアから帰る途中に飛行機で思いついたといわれています。
氏が、眼下に広がる静かな海を眺めているうちに、ビキニ環礁で水爆実験の死の灰を浴びた日本の漁船「第五福竜丸」の悲劇を思い浮かべ、水爆実験で海底に眠っていた恐竜がよみがえるという話を思いつきました。氏は早速、作家の香山滋氏に原作を依頼し、ゴジラの制作がスタートしました。
「ゴジラ」は、水爆実験の衝撃により長い眠りから覚めて、ビキニ環礁の海底から姿を現した太古の怪獣とされ、放射能をまき散らしながら東京の街を破壊し尽くすその姿は、わずか9年前の東京大空襲の記憶を人々に思い出させただけではなく、東京が水爆により壊滅するさまを想像させてあまりあるものでした。
映画のなかでは、多くの人々がゴジラの攻撃によって被災するさまが描かれており、広島・長崎そして第五福竜丸の被災は、当時においては「次は自分かもしれない」と感じさせるほど身近な問題だったことがわかるでしょう。
映画「ゴジラ」のラストシーンでは、「もし水爆実験が続けて行われるとしたら、ゴジラの同類がまた世界のどこかに現れるだろう」という警告が発せられますが、水爆実験はその後も続けられ、実験場となった地域に大きな被害を残したのです。
(Japaaanマガジンの記事より引用)
人間革命8巻 明暗の章より
一九五四年(昭和二十九年)三月、思いがけない事件が、日本国民の上に降りかかった。
事件の発端は、三月一日、北太平洋上に浮かぶビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験である。
実験は、珊瑚礁の上に建てられた高さ百五十メートルの鉄塔の上で、水爆を爆発させたものであった。爆発の衝撃で、この島に直径約一・八キロメートル、深さ約七十メートルの大穴が開いた。五十万トンと推定される莫大な量の珊瑚が、粉末となって空高く吹き飛ばされたのである。
この水爆の爆発力は、TNT火薬に換算して千五百万トン(十五メガトン)の威力をもつと推定された。四五年(同二十年)の終戦直前、広島、長崎に落とされた原子爆弾の威力が、十五から二十キロトン(〇.〇一五〜〇.〇二メガトン)相当のものであったとされていることを考えると、ビキニの水爆実験の規模が、どれほど大きなものであったか想像されよう。一発の水爆の破壊力は、なんと、第二次世界大戦に消費された全火力の二倍にも三倍にも相当するという。この一事からも、水爆の威力が、いかに恐るべきものであったかは明瞭である。
それまでに原水爆の実験が、なかったというのではない。四五年(同二十年)七月、アメリカでの最初の原爆実験が行われて以来、ソ連、アメリカは、原水爆実験を繰り返し、イギリスも、オーストラリアで原爆実験を行っていた。
2 しかし、ビキニでの、この水爆実験が、日本の人びとに異常な恐怖を与えたのは、この日、一隻の日本のマグロ漁船が、被曝したためである。漁船は、第五福竜丸という一四〇トンの小型木船で、乗組員は二十三人であった。
ミッドウェー海域で操業してから南下し、マーシャル諸島海域へ向かった。この海域で幾度かの操業のあと三月一日未明、最後の操業のための作業を終えた乗組員の多くは、仮眠をとるために船内のベッドで横になっていた。
この時、第五福竜丸は、ビキニ環礁の東方約百六十キロのところでエンジンを停止し、静かな波に揺られていた。アメリカ原子力委員会が指定した、広い航行禁止区域の境界から、離れた地点である。
現地時間の午前六時四十五分、船員たちは、空に異様な光を認めた。広い大洋の真っただ中である。辺り一面が明るくなり、船は不気味な光に包まれた。水平線に巨大な火の玉が見えた。
一月二十二日に静岡県の焼津港を出港した第五福竜丸は、そして、七、八分過ぎたころ、すさまじい轟音が海面一帯に轟き、船体が大きく揺れた。
異常事態である。船は急いで延縄はえなわの巻き揚げにかかった。
西の空に黒い雲が空高く広がっているのが見えた。この日、空はよく晴れていたが、その雲が徐々に広がり、しばらくすると、船の上空も覆ってしまった。辺りは薄暗くなり、急に天候が悪化して強い風が吹き、雨も降り始めた。吹きつける雨には、白い粉が混じっていた。
雨が止んでも白い粉は降り続いた。数時間かかった揚げ縄の作業中も、船に降り注ぎ、甲板の上も白くなった。
作業を終えた第五福竜丸は、焼津港に向かった。しかし、白い粉が降下する地帯から脱出するのに、さらに数時間を要したのである。
その日の夕方から、乗組員は体に異常を感じ始めた。多くの人が、食欲がなくなっていた。やがて頭痛を訴えたり、めまいや吐き気を催す人が続出した。頭髪が簡単に抜ける人もいた。
第五福竜丸は、このような乗組員二十三人を乗せて、三月十四日朝、母港である焼津港に着いたのである。乗組員は、帰港の喜びのなかで、そろって疲労を訴え、日焼けとは違った、異様に黒ずんだ顔をしていた。首筋や、手などが、赤く腫れ上がっている人もいる。歯ぐきからの出血もあった。
その日は、日曜日で、病院は休みだったが、船主に勧められ、乗組員全員が地元の病院に向かった。
彼らを診断した当直の医師は、広島、長崎の原爆の被爆者と同様な症状が現れているのを見て、″あるいは?″と疑問をもった。ビキニ海域で水爆実験が行われたというニュースを思い出したからである。そして、特に悪化している二人の船員を、東大付属病院に紹介することにした。二人は、翌十五日、東大病院第一外科を訪れ、診察を受けた。
その結果、一人は即日入院、他の一人は入院準備のために、いったん焼津に帰ったが、翌十六日に入院した。二人の体は、放射性物質にひどく汚染されていることが判明したのである。
3 この日、三月十六日付の「読売新聞」朝刊で、第五福竜丸の乗組員の被曝が大きく報道された。
「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」
「二十三名が原子病 一名は東大で重症と診断」
国民は、寝耳に水の衝撃を受けたといってよい。遠い彼方の大洋での水爆実験が、他人事ではなく、九年前の広島、長崎の被爆経験を思い起こさせたのであった。核戦争の恐怖を感じていた国民は、大洋上での実験においてさえも、日常の被害を免れないことを知った。暗澹たる思いは、被爆国日本の国民の心に、瞬く間に広がったのである。
第五福竜丸をガイガー計数管で調査すると、数十メートル離れた場所で、計器は、けたたましく鳴った。船体が放射能で強く汚染されていることは明らかであった。そればかりではない。船体が放射能に汚染されているということは、水揚げした魚も汚染されているということである。焼津港から出荷された魚類を、東京、大阪、金沢などで追跡調査すると、第五福竜丸以外の漁船から水揚げされた魚からも、次々に汚染魚が発見された。高い放射能は、体表のウロコの部分から検出された。
全国の魚市場は、マグロを忌避し、全国の寿司店は恐慌に陥った。回収された焼津のマグロは、砂浜などに埋められた。
ビキニ環礁の水爆実験に対する日本国民の憤激は、日を追って高まった。放射能の災害が足もとまで押し寄せてきたのである。核戦争を恐れて反戦の旗印を掲げていた人びとは、戦争がなくても、核実験の反覆が、今や地球上の人類の生存を脅かしていることを知らなければならなかった。被爆国民の神経は、極度に緊張したのである。
第五福竜丸乗組員を治療するために医師団が結成され、三月二十八日には、これら急性放射能症の患者すべてを、東大付属病院と国立東京第一病院に収容した。
厚生省公衆衛生局は、太平洋岸の塩釜、東京、三崎、清水、焼津の五つの港を指定し、南方海域から帰港する船は、この指定漁港で水揚げするように指示した。そして、水揚げされた魚の放射能検査を実施したのである。厚生省の調査では、これらの指定漁港で、一九五四年(昭和二十九年)十一月までに、廃棄魚を出した漁船は三百十二隻、その他の漁港で発見されたもの三百七十一隻、計六百八十三隻に達し、廃棄された魚は、四百五十七トンを数えている。魚の価格は暴落し続け、水産業界や飲食業界は大打撃を受けた。
魚の放射能は、当初、体の表面から検知されるだけであったが、四月中旬ごろになると、内臓から高い放射能が検知されるようになった。また、汚染魚が捕れる海域も、赤道付近から北上して日本近海にまで広がったのである。最終的に、汚染魚は北緯四〇度以北、南緯二〇度以南でも発見された。放射性物質は、太平洋の西半分を汚したのである。
海ばかりではなかった。空に撒かれた放射能灰は、対流圏ばかりでなく、数十キロ上空の成層圏にまで及んで、地球上の空を汚染し始めていることが判明した。
4 実験当事国アメリカは、この事態に対して、その影響を過小評価するような説明に終始していた。
三月末、ストローズ米原子力委員会委員長は次のような声明を出している。
「実験の結果、マグロ、その他の魚類が広範囲に汚染されたという報告に関しては、その事実は確認されていない」「実験区域に降下したいかなる放射能も、毎時一マイル以下でゆっくりと流れているこの海流にのったのち、数マイル以内に無害となるであろうし、また、五〇〇マイルたらず以内には完全に検出できなくなるであろう」
また、日米関係の悪化を憂慮した日本政府も、アメリカ側に立った対応をしたのである。
三月二十五日の衆議院厚生委員会で、外務大臣の岡崎勝男は、次のように答弁している。
「日本とアメリカとは安全保障条約締結等特殊の親善関係にあります」「われわれはできるだけアメリカのそういう実験等には協力をいたしたいと考えております」
また、四月九日に行われた日米協会の集まりで、岡崎大臣は、あいさつのなかで次のように述べている。
「われわれは米国に対し原爆実験を中止するよう要求するつもりはない。それはわれわれが、この実験が米国のみならず、われわれもその一員である自由諸国の安全保障にとり必要なことを知っているからである。こうした立場からわれわれはこの実験の成功を確保するため他の自由諸国と協力するであろう」
アメリカでは、「船員スパイ説」や、「灰はソビエトが持ち帰った」などの流言が飛んだりした。
東西冷戦の時代である。西側陣営に立つ選択をした日本は、共産主義の防波堤として再軍備への道を要請されていた。五〇年(同二十五年)に発足した警察予備隊は、五二年(同二十七年)に保安隊に改変された。さらに、五四年(同二十九年)三月に結ばれた日米相互防衛援助協定によって、「自国の防衛能力の増強」の義務を負うことになった日本は、この年の七月一日に、防衛庁と自衛隊を発足させることになっていた。
こうした状況のなかで起きた第五福竜丸事件は、人びとに危機感をもたせた。原水爆に対する反対運動が湧き起こっていった。
第五福竜丸の母港である焼津市では、市議会が、三月二十七日、原子力を兵器として使用することの禁止と、平和的利用を要求する決議を行っている。
これを契機として、全国の地方議会は、連鎖反応のように次々と原水爆禁止決議をした。
東京の一角・杉並区では、原水爆禁止運動の烽火のろしが上がった。区民の有志が、当時、杉並公民館長であった安井郁と話し合い、禁止運動を始めたのである。
五月九日、水爆禁止署名運動杉並協議会を結成し、「杉並アピール」として、後に有名になった声明を広く訴えた。
5 「全日本国民の署名運動で水爆禁止を全世界に訴えましょう
広島長崎の悲劇についで、こんどのビキニ事件により、私たち日本国民は三たびまで原水爆のひどい被害をうけました。死の灰をかぶった漁夫たちは世にもおそろしい原子病におかされ、魚類関係の多数の業者は生活を脅かされて苦しんでいます。魚類を大切な栄養のもととしている一般国民の不安も、まことに深刻なものがあります。
水爆の実験だけでもこのような有様ですから、原子戦争がおこった場合のおそろしさは想像にあまりあります。たった四発の水爆が落されただけでも、日本全国は焦土となるということです。アインシユタイン博士をはじめ世界の科学者たちは、原子戦争によって人類は滅びると警告しています」
この平明な文章のアピールは、全国各地の禁止決議と同時に起こった署名運動が、自然発生的で個別なものであることを指摘し、これを全国的に統合することを訴えて、次のように続けている。
「杉並区では区民を代表する区議会が四月十七日に水爆禁止を決議しました。これに続いて杉並区を中心に水爆禁止の署名運動をおこし、これをさらに全国民の署名運動にまで発展させましょう。そしてこの署名にはっきりと示された全国民の決意にもとづいて、水爆そのほか一切の原子兵器の製造・使用・実験の禁止を全世界に訴えましょう。
この署名運動は特定の党派の運動ではなく、あらゆる立場の人々をむすぶ全国民の運動であります。またこの署名運動によって私たちが訴える相手は、特定の国家ではなく、全世界のすべての国家の政府および国民と、国際連合そのほかの国際機関、および国際会議であります。
このような全日本国民の署名運動で水爆禁止を真剣に訴えるとき、私たちの声は全世界の人々の良心をゆりうごかし、人類の生命と幸福を守る方向へ一歩を進めることができると信じます。
一九五四年五月
水爆禁止署名運動杉並協議会」
6 この「杉並アピール」は、庶民の声である。当のアメリカ政府は、責任を回避しようとし、日本政府は、それに追随して一言の抗議すら発しない時、国民の憤激は、国家や政治体制を超え、人間としての原点からの叫びとならざるを得なかった。その叫びは、署名運動という行動となっていったのである。
この間も、ビキニでの水爆実験は繰り返され、五月十四日までに五回の実験が行われた。
この十四日には、雨水から異常に高い数値の放射能が検出され、以後、日本列島に放射能雨が降り続けることになるのである。
原水爆禁止の声は、杉並区であがっただけではなく、全国各地で湧き起こっていた。その声は、原水爆の危機を人類滅亡の暗雲として感ずる、すべての人びとの胸に響き渡り、署名運動は、全国の各市町村で燎原の火となって燃え広がった。
八月八日には、原水爆禁止署名運動全国協議会が結成され、署名数は、四百四十九万と発表された。
九月二十三日には、第五福竜丸の無線長であった、久保山愛吉が遂に死亡した。水爆実験による犠牲者である。船員たちの受けた放射線量が、いかに危険な量であったかが証明されたわけである。世界が、このままの状態で進むならば、人類は絶滅の危機に直面することを、人びとは自覚した。
署名運動は、十月初めには千二百万を超え、十二月には二千万に達し、年を越すと運動は海を渡った。
一九五五年(昭和三十年)八月六日には、広島で第一回原水爆禁止世界大会が開催された。十年前の原爆投下のその日である。このころには、国内の署名数は三千二百万を超え、全世界では六億七千万に達した。
署名した人びとは、人類という共通の場から、この事件を考えることを学んだ。そして、人間社会の中の、地球を破滅に導く悪魔の爪の存在を、強く意識せざるを得なかった。
その爪は、どこにあるのでもない。実に人間の心に隠されて存在するのだ。原爆そのものを生み出した科学や政治だけでは、それを抑止できないことは自明であった。
二大国間における核爆弾製造の、すさまじい競争にもかかわらず、今日まで、どうやら第二の広島や長崎が、幸いにして地球上に現れないのは、平和を希求する全世界の人びとの良心が、悪魔の爪をやっと抑えているからであろう。
マグロから雨にまで、放射能が発見される地球にしてしまったことを、人びとは、もはや一瞬も忘れることはできなくなってきた。原水爆について、人びとが健忘症に陥ったその時、人類は自殺への道を急ぐことになるだろう。恐るべき運命を、人類は、いつか握ってしまったのだ。この宿命を根本的に転換し得るものは、いったい何か。
それは、万人の生命の尊厳性を、完壁に説ききった平和思想しかないであろう。そのような絶対の平和思想を、全人類のなかに生み育てる精神の大地を、どこに求めたらよいのか――誰一人、確信をもって明言できる人は、いないのが現状である。
7 原水爆の暗雲が、そのまま人類の前途を塞ぐ暗雲でなければ幸いである。この暗雲のもとで、戸田城聖は、ただ一人、彼の信奉する日蓮大聖人の仏法こそ、絶対平和思想を育てる哲理であることを、固く信じていた。
彼は、原水爆禁止の署名運動の展開を眼前にして、そこに、時代の民衆の自覚と動向を見た。
戸田は、ひとまず、それをよしとしたが、世界的に広がった署名運動の成功だけで、核の廃絶という本来の目的が、達せられるものとは考えなかった。彼は、仏法の説く生命の原理によって、移ろいやすい人間の心というものを知悉していた。原水爆禁止を叫ぶ正義の心も、いつまた、いかなる縁によって、その正反対の行動に展開するかもしれない。過去の歴史には、そうした多くの事件が刻まれている。彼は、それらの歴史的事実を、心に鋭い痛みを感じながら思い出していたのだ。
人間は、自分の心を自由にすることができると錯覚しているが、いざ事に当たってみると、決して自由にはできないのが常である。その心の奥にあるものこそ、生命の働きなのだが、人は、これに気づかないのである。
戸田城聖の思索は、常に具体的であった。
――彼は、人びとの心の奥には、平和を希求する生命が、本然的に内在するものと考えた。それを仏の生命というならば、その生命状態を発現させるものは、日蓮大聖人の仏法の実践にかかっているはずである。
彼が現代に生きて、生涯を賭して把握した日蓮大聖人の仏法の真髄は、このためにこそ実在しているのだ。人びとの移ろいやすい心、神にもなり、また悪魔にもなり得る心を、平和建設の光源となる、揺るぎない心に育てるには、生命そのものを変革する以外にないではないか。
彼は、彼自身の今日に至る宗教活動の実践を、広宣流布の戦いとして口に叫んできたが、その目的とするところは、すべての人びとの生命の変革による、全人類の恒久平和の実現にほかならなかった。
夜ごとの座談会、教学の講義、辛抱強い真実の仏法に関する啓発運動―これらは地味な活動ではあるが、署名運動より、はるかに根気と、忍耐と、研鑽と、努力とを必要とする。しかし、彼は、それこそが、遠回りのように見えようが、最も根源的で着実な生命変革の運動であると確信し、胸中深く誇りと自信とをいだいていた。
そして、これらの活動こそ、一人ひとりの民衆を救うと同時に、一国の宿命を転換し、やがては人類の宿命の転換さえも可能にする、現代における唯一最高の運動であると自覚していた。その運動によって、根本的な平和を構築することに、彼は全生涯をかけていたのである。
8 たび重なる戦争に懲りた人びとは、戦争を惹起させる根源が、いったいどこにあるか、やっと気づいたようである。たとえば、ユネスコ憲章の前文に、「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」と、うたい上げるところまできた。
しかし、では、何をもって、移ろいやすい人間の心に、平和の砦を築くことができるかを語ってはいない。
現代において、人間がいちばん無知であるのは、どうやら自分の心に関してであるといって差し支えないのではないか。人びとは、戦争が悪であることを認めてはいるが、なお地球上では、局地限定戦争などという名目で戦争は続いている。しかも来るべき大戦争に怯えながら、地球を破壊し尽くして余りある軍備増強を、せっせと行っている。そして、″戦争は人の心から起こる″と言いながら、その心をいかにすべきかは、全く不問に付している。
戸田城聖は、現代の人びとが不問に付していることに挑戦して、一人ひとりの心に、崩れざる平和の砦を構築していることに深い確信をいだいて、日夜、実践してきたことを、しきりに思い浮かべていた。
彼は、原水爆禁止の署名運動が、世界的規模で波及していくのを見ながら、彼の独創的な広宣流布の運動も、いつの日にか、世界的規模で確固として進展していくであろうことを、まざまざと思い描いていた。
″署名運動は、平和勢力の強大なデモンストレーションとはなり得ようが、人びとの生命の状態を、根本的に変革するにはいたるまい。また、戦前のように、これに反対する勢力が台頭する恐れもあり得よう。それは、人類の歴史に刻まれた傷痕の数々を見れば、明らかなことのように思われる。してみれば、現代の平和は、実に危ういところにある……″
こう洞察した戸田は、月々の創価学会の活動に、いよいよ全力を注いだ。彼の不動の確信には、救世の誠が燃えていたのである。